第九回 小林至-後編-ただただ野球が好きで生きてきたらこんな軌跡になりました。|システム構築やトータルソリューションをお探しなら、Dunyaturuソリューションズをご利用ください。

平成の世にサムライを探して 

小林至-後編-ただただ野球が好きで生きてきたらこんな軌跡になりました。

小林至氏 後編は、千葉ロッテマリーンズ退団後の人生へと突入します。新天地アメリカへ渡り、MBAを取得するも、思い描いたほど理想の国ではなかった同国に見切りをつけ、日本に帰国します。東大を出て、プロ野球選手を経験して、MBAを取得するという文武両道の稀有な経歴を持った小林さんを、世間はひとときも放っておきませんでした。

夢が現実になった。
しかし、その現実は想像以上に厳しく――。

小林至(こばやしいたる)プロフィール
1968年1月、神奈川県生まれ。
神奈川県立多摩高校を卒業後、東京大学へ進学。東京大学でエースとして活躍したのち、練習生を経て、1992年、千葉ロッテマリーンズにドラフト8位で入団、翌年退団。渡米の後、コロンビア大学経営大学院修了(MBA取得)。1996年、ザゴルフチャンネル入社(フロリダ州)。通訳、翻訳、解説に従事。2000年、同社を退社後、帰国。2001年、参議院議員選挙に東京選挙区から立候補するも落選。2002年、江戸川大学社会学部助教授就任。2005年、福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役、福岡ソフトバンクホークスマーケティング 株式会社取締役就任。現在に至る。

子供の頃から夢に見ていたプロ野球選手に小林さんはなった。誰もが憧れと賞賛の入り混じった目で見上げてくれる。言葉に表せないほどの誇らしい気持ち。職業に貴賎なしというが、誰にでもつけるというわけではない仕事が、この世には確かにある。その一つがプロ野球選手だろう。しかし、現実はそれで「めでたし、めでたし」と終わるわけではない。「夢が現実になると、今度はその世界で生きるようになる」と小林さんは表現する。そこは、単なるドリームワールドではなく、トップにのぼりついたアスリートたちが厳しい生存競争を繰り広げる世界だったのだ。

球団の先輩たちには、プロテストに合格したとはいえ、実力というよりは話題先行で入団したように映ったのだろう。小林さんの入団をあまり歓迎しない向きもあった。理不尽に感じたかというと、当の小林さんは「いたしかたない」と思っていたという。なぜなら、「自分が逆の立場であれば、そう思っただろうから」。

実際、小林さんはプロに入ってみて、その高い運動能力に驚いた。人間の本来の運動能力というのは、試合のときよりも練習のときにこそ出る。大学時代、ピッチャーとバッターとして対峙していたときには気にならなかった運動能力の差が、基礎練習のときにはっきりと表れた。

小林さんがよく覚えているのは、「鬼ごっこ」である。一人が鬼になって、フィールドに散らばった他の選手をつかまえる。投手の足腰強化の一環としてよくメニューに取り入れられていたのだが、小林さんがロッテに所属していた時期、この「鬼ごっこ」は行われなくなってしまった。練習にならないからである。鬼になった人は全員、まっしぐらに小林さんを捕まえに来る。5分も経たないうちに捕まって小林さんが鬼になるのだが、みんな恐ろしく足が速いので今度は誰も捕まらない。「素の運動能力」と小林さんはいうのだが、プロ野球選手にまでなる人というのは、持って生まれた運動能力のレベルがまったく違っていた。

小林さんの投球スピードは、懸命に投げて時速130km。当時でも「遅すぎる」と評された。タイミングが合わないために、中村紀洋選手など稀代のバッターを三振に打ち取ったこともある。今日のプロ野球界でも、あえて遅い球を決め球に持つピッチャーがいるではないかと門外漢は思うのだが、“変化球の一つとしてそうした遅い球を持つのと、歯を食い縛って投げても130kmというのは違う”と小林さんは首を振る。しだいに試合の登板間隔が中1ヵ月と間遠になっていき、気がついたらどっぷり2軍生活に浸っていた。プロスポーツの恐ろしいところは、成績が数字でばっちり出るという点だ。中でも長い歴史を持つプロ野球は選手の実績の数値化手法が確立していた。自分にもはっきりわかるし、球団幹部にもはっきりわかる。入団2年目には、小林さんはプロ野球界での自分の将来に暗雲を感じるようになっていた。

来る日も来る日もファームで過ごす日々。心はしだいにすさんでくる。「もう今年で辞めてやる」とふて腐れたこともしばしば。しかし、本気で辞めることは一度も考えたことはなかったという。風向きが変わったら自分にもチャンスがめぐってくるかもしれないという思いからだろうか。そうではない、と小林さんはいった。

「腐っても鯛というが、どういう状況でも好きな野球でメシが食えているというのは幸せなことで、自分からその幸せを手放そうとか、離れようとかいったことは考えられなかったですね。また、プロ野球に関わる人々はあまたといますが、なんといっても選手が一番輝いているんですよ。ときどき、現役を引退したOBが球団を訪ねてきたりしましたが、『よっ、どうしてる?』なんて先輩風吹かせながら、どこかうらやましそうな表情なんですよね。体型もすっかり変わってしまって、今はどこで何をしているんだか、という人も多くて、そういう風景を日々見ていましたから、現役でいられるならば、という強い思いはありました。その思いはプロ野球選手に共通していて、年齢以外の理由で、自分から辞める人はまずいないですよ」

しかし、現実は非情だ。1993年のシーズンを最後に小林さんはついに自由契約選手となる。練習生を含め、3年間の短いプロ野球生活が終わった。プロ通算成績は、イースタンリーグで、26試合。23回1/3、0勝2敗、防御率6.17。

喪失感にさいなまれる日々。
人生の先輩の助言を得て、新天地アメリカへ。

小林氏野球に始まり、野球に終わった毎日が、突然白紙になる。野球が自分の表現の手段であり、生きる目的であった小林さんは、それを奪い取られて深い喪失感に襲われた。これから一体何をして生きていけばいいのか、まったくわからない状態になったという。このままではいけない、といろいろな世界の人生の先輩に相談した。実業家、政治家、医師。プロ野球選手をしていたおかげで、そういう知り合いには事欠かなかった。ある意味、芸能人よりも有名人だったからかもしれない。現役時代、会いたいといってくれる人は引きもきらず、その人がまた誰かを紹介してくれるという状態だった。そうして入手した名刺の束を頼りに、小林さんは助言を求めに歩いた。

人生の先輩たちが口を揃えていったことは、「とにかくすぐに何かを始めなさい」ということだった。「海外へ行ったら」と勧めてくれる人も多かった。海外で1、2年ブラブラするかとも考えたのだが、誰しも「ブラブラするなんて最低だ」といった。そこで、当時流行っていたこともあり、MBAを取得することに目標を定めて渡米した。1995年1月、ニューヨーク市のコロンビア大学経営大学院入学。経営学は東大時代に専攻していた学問で違和感はない。とはいえ現役時代は目にする活字はマンガとスポーツ新聞くらいだったから、久しぶりの専門書に吐き気を催したというが、自分をとことん追い込むような予備校時代のハードな学習方法を思い出すのにそれほど時間はかからなかった。

勉強はしたものの、卒業してどうしようという構想はその頃の小林さんにはなかった。一般に、MBAを取得してキャリアのプラスにしようと考える人間は、入学してすぐに就職活動を始めるのだという。実際、小林さんの周囲はそうしていた。しかし、小林さんは相手をしてくれる友達をつかまえてはゴルフに興じた。ゴルフ三昧の生活だったといっても過言ではないという。そうしてゴルフに明け暮れつつも二年後、MBAを難なく取得する。大学院時代に得たものは、友人とゴルフの腕前と英語、と小林さんは笑う。

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