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【現代に活きるチームの力学 戦国家臣団に学ぶ強い組織づくり】第1回 「徳川家臣団」〜信頼をベースにした結束力〜

乱世の時代にしのぎを削った戦国武将の家臣団。
家臣たちはいかなる働き方をし、チームパワーを発揮したのか。
現代ビジネスの視点から、さまざまな家臣団の組織モデルを検証し、
現代に活きる知恵をあぶりだす。

徳川家康を支える古参スタッフ中心の編成

徳川家康肖像(堺市博物館蔵)
徳川家康肖像(堺市博物館蔵)

ここ最近で急成長を遂げた企業もあれば、かつて隆盛を誇りながら失速した企業もある。変化の激しい現代のビジネス社会においては、いかに経営者が優秀でも、ブランドに歴史があっても、組織が脆弱だと生き残ることがむずかしい。本当に強い組織づくりとは何か。戦国時代の家臣団をケーススタディとして考えていきたい。

最初にとりあげるのは徳川家臣団である。家康を主君とし、優秀な武将を数多く抱える家臣団であり、ビジネスの視点からみると圧倒的な力をもったメジャー企業のような印象を受ける。しかし、徳川に改名する前の松平家が治めていた三河の家臣団は、経営の安定しない中小企業のような存在にすぎなかった。強大な今川と武田、そして新興勢力の織田に挟まれ、どこかの有力大名と手を結ばないと単独では存続がむずかしい状態だった。家康はいかにして強固な組織づくりに成功したのか。そして徳川家臣団はなぜ覇者のチームに成長することができたのか。そこに組織づくりの重要なエッセンスがある。

岡崎城
岡崎城

徳川家臣団を語るうえで欠かせないのが三河武士団の存在だ。
家康の父、松平広忠はまだ幼い家康を今川に人質に出し、弱小だった三河の存続をはかる。だが広忠は家臣の謀略によって命を奪われ、本拠地の岡崎城は城主が不在となる。そのため今川から代官が派遣され、三河は今川の属国のような扱いになってしまう。
この家康の人質時代に岡崎城を預かっていたのは、本多、榊原、石川、鳥居といった長老たちだった。いわゆる三河武士団である。この長老たちは、のちに家康を支える本多忠勝や榊原康政といった重臣たちの親世代であり、家康の祖父にあたる松平清康の時代からの家臣である。若くして三河を統一する勢いだった祖父の清康は非凡な才能をもった英明な君主と期待されながら、政略によって家臣に殺されてしまった。この無念を晴らすべく家康に期待していたのである。窮乏生活に耐えながらも、いつかは家康を岡崎城の城主に迎え入れるという思いが、彼ら三河武士団の結束をいっそう固めたともいえる。

ゼロから人を集めるのは大変だが、すでに三河には松平家には優秀な人材が存在した。雪辱に燃える高いモチベーションをもった古参の家臣団が、松平家復興のために準備を怠らず、あとは領主の帰還を待つだけになっていた。
1560年(永禄3年)に桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたのを機に、家康は岡崎城に戻り、ようやく今川から独立する。ここから本格的な組織づくりが始まるのである。

安心して仕事をまかせられる人材が集結

働き方改革で時短が叫ばれる昨今だが、若い組織にはハードワークはつきものだ。損得を度外視してチームのために働く献身的なスタッフがどうしても必要なときがある。家康はそうした家臣に恵まれていた。その代表が徳川四天王と呼ばれる、酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政である。

徳川十六将図(致道博物館蔵)
徳川十六将図(致道博物館蔵)

酒井忠次は徳川のナンバー2として家臣団を支えた重臣だ。家康の親の代からの家臣で、家康よりも15歳、榊原康政と本多忠勝よりも21歳、井伊直政にいたっては34歳も年上である。家康が今川義元の人質だった時代から仕え、苦楽をともにしてきた腹心である。
家康は三河を統一する過程で、忠次に東三河を任せ、その拠点である吉田城の城主に任命している。家康が家臣を城主にしたのは、この忠次の一件だけであり、いかに家康が信頼を寄せていたかがわかる。武将として優秀だっただけでなく、戦略家であり、交渉術にも長けていた。拙速な行動をとる若手を制するだけでなく、若手を育てるメンターとしての役割も果たしている。こうした豊富な経験と知見をもつキャリア人材は、強い組織づくりには欠かせない人物だ。

榊原康政と本多忠勝は武功派の重臣である。今川から独立し、岡崎城に戻った家康だが、決して基盤が安定していたわけではなかった。家康の統治を望まない者もいたのである。そうした対抗勢力との戦いが1563年(永禄6年)の三河一向一揆である。免税などの特権を得ていた三河の一向宗(浄土真宗)に対して、家康が課税しようとしたことが反乱の原因とされている。一揆の側には松平家の家臣も多く、三河武士団を二分する混乱を招いた。この事件は三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、家康の三大危機とされる。
この窮地を救ったのが、本多忠勝と榊原康政である。本多忠勝はわずか16歳で、一向宗の門徒でありながら、家康とともに戦うために浄土宗に改宗し、並外れた武芸の腕を発揮し、一揆の鎮圧に貢献する。榊原康政も忠勝と同じ16歳で、まだ元服していなかった。にもかかわらず、みずから志願して先陣を務め、相手を圧倒する働きをみせた。
この2人はのちに旗本先手役となって多くの武功をあげる。本多忠勝は57回の戦のなかで、一度も刀傷を負わなかったという逸話を残す。

井伊直政も武功派だが、譜代の家臣だった忠勝や康政と違い、もとは今川の家臣だった。若いうえに外部からの中途採用でありながら異例のスピード出世を遂げる。直政の能力が優れていたこともあるが、出自や年齢を問わず実力のある者を抜擢して厚遇することで、家康の人材活用に対するスタンスを世に示したともいえる。徳川家臣団に入れば、若い自分でも、あるいは主君を失った自分でも、活躍の場がある。そう思わせることで、多くの優秀な人材を引き寄せることが可能になる。

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